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 東海道

以下『近世交通史料集』収録の諸大概帳による天保14年(1843年)の主要街道の宿場町人口をまとめる。

一般には江戸日本橋から京三条大橋までを海側で結ぶ街道を東海道と呼ぶが、幕府公式の『東海道宿村大概帳』では、
江戸日本橋から大坂高麗橋までを結ぶ街道を東海道としてまとめている。

この場合、大津宿と伏見宿を結ぶ大津街道、京から伏見宿経由で大坂までを結ぶ大坂街道が東海道に組み込まれる。


天保三年(1832年)広重は江戸から京都へと、御所に馬を納める御馬献上の公式派遣団の1人として、東海道を旅している。馬は将軍からの象徴的な贈り物であり、
天皇の神としての立場を尊重して、毎年贈られていた.

※木版画は通常、それぞれ12 - 16銭で売られた。わらじ1足、あるいはうどん1杯とほぼ同じ値段である。


※画の最後に延岡十四代城主・内藤政順(まさより)公に嫁した、奥方の繫子(充姫)後の充真院が道中記を書いた「東海道五十三次ねむりの合の手
を簡単に比較のため抜粋して記載しておきます。   (充真院は桜田の門の事件で有名な大老・井伊直弼の実姉)


統計は『東海道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

宿場町 旧国 人口 家数

宿場町  旧国   人口 家数 

宿場町  旧国  人口  家数 

屋 
宿場町 旧国 人口 家数

日本橋・出発                     29・浜松宿    遠江 5,946  1,622  94   44・石薬師宿 伊勢  991  241  15 
1・品川宿 武蔵 6,890 1,561 93 15・蒲原宿  駿河  2,480  509  42  30・舞阪宿   遠江  2,475  541  28  45・庄野宿 伊勢 855 211 15
2・川崎宿 武蔵 2,433 541 72 16・由井宿  駿河  713  160  32  31・荒井宿   遠江  3,474  797  26  46・亀山宿 伊勢 1,549 567 21
3・神奈川宿 武蔵 5,793 1,341 58 17・興津宿   駿河  1,668  316  34  32・白須賀宿   遠江  2,704  613  27  47・関宿 伊勢 1,942 632 42
4・保土ヶ谷宿  武蔵 2,928 558 67 18・江尻宿  (清水)  駿河  6,498  1,340  50  33・二川宿  遠江  1,468  328  38  48・坂之下宿 伊勢 564 153 48
5・戸塚宿  相模 2,906 613 75 19・府中宿  (静岡) 駿河  14,071  3,673  43  34・吉田宿  (豊橋)  遠江  5,277  1,293  65  49・土山宿 近江 1,505 351 44
6・藤澤宿 相模 4,089 919 45 20・丸子宿   駿河  795  211  24  35・御油宿  遠江  1,298  316  62  50・水口宿 近江 2,692 692 41
7・平塚宿  相模 2,114 443 54 21・岡部宿   駿河  5,322  487  27  36・赤坂宿  遠江  1,304  349  62  51・石部宿 近江 1,606 458 32
8・大磯宿 相模 3,056 676 66 22・藤枝宿  駿河  4,425  1,061  37  37・藤川宿   遠江  1,231  302  36  52・草津宿 近江 2,351 586 72
9・小田原宿  相模 5,404 1,542 95 23・嶋田宿   駿河  6,727  1,461  48  38・岡崎宿  遠江  6,494  1,565  112  53・大津宿 近江 14,892 3,650 71
10・箱根宿 相模 844 197 36 24・金谷宿  遠江  4,271  1,004   51  39・池鯉鮒宿  遠江  1,620  292  35  終り・京都  山城
11・三嶋宿 伊豆 4,048 1,025 74 25・日阪宿   遠江  750  168  33  40・鳴海宿  尾張  3,643  847  68  伏見宿 山城 24,227 6,245 39
12・沼津宿  駿河 5,346 1,234 55 26・掛川宿   遠江 3,443  960  30  41・宮宿  (熱田) 尾張  10,342  2,924  248  淀宿 山城 2,847 836 16
13・原宿 駿河 1,939 398 25 27・袋井宿  遠江  843  195  50  42・桑名宿   伊勢  8,848  2,544  120  枚方宿 河内 1,549 378 69
14・吉原宿  (富士) 駿河 2,832 653 60 28・見附宿    遠江  3,935  1,029  56  43・四日市宿  伊勢  7,114  1,811  98  守口宿 河内 764 177 27


歌川広重の東海道五十三次
日本橋・朝之景・・・・・武蔵国・東京


品川・日之出・・・・・武蔵国・東京


川崎・六郷渡舟・・・・武蔵国・神奈川県


神奈川・台之景・・・・武蔵国・神奈川県


保土ヶ谷・新町橋・・・・・武蔵国・神奈川県


戸塚・元町別道・・・・・相模国・神奈川県


藤澤・遊行寺・・・・相模国・神奈川県


平塚・縄手道・・・・・相模国・神奈川県


大磯・虎ヶ雨・・・・・相模国・神奈川県


小田原・酒匂川・・・・・相模国・神奈川県


箱根・湖水図・・・・・相模国・神奈川県


三島・朝霧・・・・・伊豆国・静岡県


沼津・黄昏・・・・・駿河国・静岡県


・朝之富士・・・・・駿河国・静岡県


吉原・左富士・・・・・・駿河国・静岡県


蒲原・夜之雪・・・・・駿河国・静岡県


由井・由比・・・・・駿河国・静岡県


興津・興津川・・・・・駿河国・静岡県


江尻・三保遠望・・・・・駿河国・静岡県



府中・安倍川・・・・・・駿河国・静岡県


丸子・名物茶店・・・・・駿河国・静岡県


岡部・宇津之谷峠・・・・・駿河国・静岡県


藤枝・人馬継立・・・・・駿河国・静岡県


嶋田・大井川駿岸・・・・・駿河国・静岡県


金谷・大井川遠岸・・・・・遠近江・静岡県


日阪・佐夜ノ中山・・・・遠近江・静岡県


掛川・秋葉山遠望・・・・・遠近江・静岡県


袋井・出茶屋ノ図・・・・・遠近江・静岡県


見附・天竜川図・・・・・遠近江・静岡県


浜松・冬枯ノ図・・・・・遠近江・静岡県


舞阪・今切真景・・・・・遠近江・静岡県


荒井・渡舟ノ図・・・・・遠近江・静岡県


白須賀・汐見阪図・・・・・遠近江・静岡県


二川・猿ヶ馬場・・・・・三河国・愛知県


吉田・豊川橋・・・・・三河国・愛知県


御油・旅人留女・・・・・三河国・愛知県


赤坂・旅舎招婦ノ図・・・・・三河国・愛知県


藤川・棒鼻ノ図・・・・・三河国・愛知県


岡崎・矢作之橋・・・・・三河国・愛知県


池鯉鮒・首夏馬市・・・・・三河国・愛知県


鳴海・名物有松絞・・・・・尾張国・愛知県


・熱田神事・・・・・尾張国・愛知県


桑名・七里渡口・・・・・伊勢国・三重県


四日市・三重川・・・・・伊勢国・三重県


石薬師・石薬師寺・・・・・伊勢国・三重県


庄野・白雨・・・・・伊勢国・三重県


亀山・・・・・・伊勢国・三重県


・本陣早立・・・・・伊勢国・三重県


坂之下・筆捨嶺・・・・・伊勢国・三重県


土山・春之雨・・・・・近江国・滋賀県


水口・名物干瓢・・・・・近江国・滋賀県


石部・目川ノ里
・・・・・近江国・滋賀県


草津・・・・・・近江国・滋賀県
天保14年(1843年)の『東海道宿村大概帳』によれば、草津宿の宿内家数は586軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒で宿内人口は2,351人であった。


草津追分
・・・・・・・近江国・滋賀県


大津・走井茶店・・・・・近江国・滋賀県


京都・三条大橋・・・・・山城国





充真院の道中記東海道五十三次ねむりの合の手

出発;文久三年(1863年)四月六日六本木屋敷。        到着;延岡六月二日
江戸から東海道を通って、伊勢湾北部の七里の渡しを船で渡り、大坂から海路で瀬戸内海を西航した。

駕籠(かご)の乗り心地:たえず居眠りして、駕籠の背面に後頭部をトントンと打ち当てるので、危なく家臣が駕籠の脇でその音を聞きつけ、
「どうか布団のようなものをかぶりますように」と気配りをしてくれた。
自分でも「そうしたいものだ」と、たった今言ったとたん、また打ち当てたので、後頭部がよほど腫れて痛んで困った。

幕府の命に従い、去年(文久二年(1862年)の冬から諸大名の奥方は、自分の国許へ引っ越せとのお言いつけで、
住み慣れた江戸をあとにしてお立ちになられた。

一日目
:四月六日 六本木ー高輪大木戸ー品川ー鈴ヶ森ー大森ー六郷の渡ー川崎ー神奈川台ー保土ヶ谷
五つ(午前8時)六本木屋敷を出立する時は、何にたとえようがなく、ただただ涙に目もふさがり、周囲もわからずに行き過ぎた。
少し心が落ち着き、どこかしらと思って見れば、海の景色が見えた。   もはや高輪大木戸(港区高輪2丁目)に着いたと思った。
品川(品川区北品川1~3丁目、南品川区1~5丁目)出立が四つ半(午前11時頃)、鈴ヶ森、大森(薬の和中散)(大田区大森)、
六郷の渡(大田区南六郷3丁目)渡し賃一人十文、武士は無賃、河崎昼休、神奈川台横浜市神奈川区)を経て、程ヶ谷(保土ヶ谷)に夕刻灯りが点く頃に
到着、宿泊した。
本陣:大名宿。

四日目 四月九日 平塚ー梅沢ー酒匂川ー小田原
平塚、梅沢、酒匂川の渡を経由して、小田原泊。  酒匂川の渡は朱塗りの輦台(れんだい)に私が乗った駕籠を載せ、「ヨイヨイ」と掛け声かけながら川に担ぎ入れた。
輦台が下ろされたときは、地面にめり込むような感じに思えた。 また絵に描いたように、肩車に乗って渡る者もあり、珍しかった。  やがて小田原に着いた。

五日目 四月十日 小田原ー箱根ー畑宿ー箱根権現ーさゐの河原ー箱根関所ー柏屋本陣
小田原出発箱根山へかかり、福住旅館で昼休み、畑宿、箱根権現、さゐの河原、箱根関所を通過、本陣柏屋泊。
箱根権現(芦ノ湖東岸の箱根神社)、右前方の木の間から鳥居が見える。はるかに拝んで、木立の茂った場所から離れて、箱根権現の大鳥居があり、
その続きにさゐの河原(賽の河原)といい、大小の地蔵尊が湖畔に並び、まことに悲しくなっておのずから念仏が口をついて出た。
左前方にも地蔵尊があった。   平な場所に出た、脇にかけ茶屋があり、甘酒が名物との事。
ここから関所ゆえ、家臣が使者に立った。見栄えのよくない茶屋で、しばし待つようにとのこと。この茶屋でやわやわ(ぼた餅)をいう。
ちなみに「いしいし」はダンゴ、「菱かちん」は菱餅、「あげかちん」は揚げ餅、「おゆるこ」はお汁粉をご馳走し、それで茶を飲み、一同皆うち揃って、
知らせがあれば、関所にきちんと並んで向かうようにとのこと。  難関の箱根関所を順番に通った。
駕籠のすだれをおろすように大声がかかり、私達の駕籠は何事もなく、つぎの駕籠は婆(改め女)が出て、関所の面番所の側でない駕籠の戸を開き、
「女房一人、相輿(二人が一つの輿に乗ること)もございません」と言い、同様に皆済むと、すぐ近くの本陣で柏屋という箱根本陣に着いた。

六日目 四月十一日 柏屋本陣ー宗閑寺ー三嶋明神ー沼津原宿
道には敷石がある。将軍(十四代家茂)の上洛(文久三年(1863年)三月入京)以降、格別によくなったと言う。
ほどなく山中の宗閑寺という所に着き小休止した。
座敷の続きなどは、板張りなどがあってむさ苦しく、寺のことゆえ何事にも行き届かず、ようやく次の間の向こうの上にあがるくらいで、
赤飯に煮しめを添えて出してくれた。
少し空腹にもなったので、好物ゆえよろこんで食べたところ、煙臭くて一口も食べられなかった。
孫の光姫は、箱根山の通行中、駕籠の中で居眠りしたゆえ、稚児輪(ちごわ)(頭上に高く輪を左右に作って結んだ少女風のまげ、稚児髷)
もこわれ散らし髪になっていた。。
三嶋の宿場に着いた、「もう三嶋明神の前になりました。」とのことで昼食には少し早いので、駕籠からおりて三嶋明神に参拝する。しばしそこにいた庭鶏と遊ぶ。
私は駕籠に乗ってたえず居眠りして、背面に後頭部をトントンとうち当てるので、危なく家臣が、駕籠の脇でその音を聞きつけ、「どうか布団のようなものをかぶりますように」と
気配りをしてくれた。自分でも「そうしたいものだ」とたった今言ったとたん、また打ち当てたので、後頭部がよほど腫れて痛んで困った。「これからは、手ぬぐいなりともかぶりましょう」
と申したほどである。

七日目 四月十二日 原ー柏原ーきせ川橋ー藤河(富士川)の渡(吉原)ー岩淵(栗の粉餅)-蒲原(かんばら)にて昼休ーさった(薩埵)峠は通行せずー倉沢ー興津泊。
蒲原で昼休みして、薩埵峠は、近頃通行しないと言うので、その麓の倉沢というところを通る。右側は山高く、左側は松並木の枝ぶりのよさ、下に波打ち際に海女の家が見える。
松の枝のの垂れ下がった隙間から沖の方で塩焼きの営みも見え私などは一段高い座敷に上がった。
この辺りでは、鮑(あわび)、さざえのつぼ焼きが名物ということながら、あまり風味もよろしそうに見えず、少し汚らしくみえたので食べなかった。

八日目 四月十三日 興津江尻ー小吉田ー府中に昼食ー鞠子ー宇津谷ー岡部泊。

九日目 四月十四日 岡部ー藤枝ー三軒や、嶋田にて昼食ー大井川の渡ー金谷ーさよの中山ー日阪ー山鼻ー掛川泊。
大井川の水かさはどうだろうと心配しつつ行くと、川の手前に(川会所の)役人がでて世話をするので、もう川かと思ったところ、何かゴヤゴヤ言ってかけて行く、
右前方は大きな河原で、左前方には長く仮橋の杭が見える。何かと聞けば、将軍(十四代家茂)のお通りの時は、橋板を架けると言う。少し板になった箇所もあった。
この仮橋の長さは、五十間(約90,5m)ほどもあろうか。


河原に輦台(れんだい)があり、駕籠を載せると、川越人足が両側に十二人づつついて担ぐと言うけれど私が乗った

輦台を担ぎ上げ、ワイワイ言いながら手を広げて付き添って行く。皆は川下の方をだんだん渡ってゆく。幟(のぼり)がたててあるのは、こちら岸から群れて渡す印しだと言う。

川水は思ったより浅く、腰までの深さで安心したが、上から見下ろすと、はるか下の方に見える。もし落とされた時は、かなり高さがあるなあと思うと心地もよくない。
かねて聞いていたより川幅はそれほどでもない。人足の肩車で渡る者もあり、また颯爽(さっそう)とした輦台に二人ずつ乗って渡る者もあった。

私の駕籠は、「ヨイヨイ」といって向こう岸の河原におろす時は、ズンと地にめり込むかと思うほどで心地が悪く、皆が渡りきるまで河原に駕籠をおろして見ていた。
川越人足は、帰り道は浅い所を遊び遊び帰ってゆく。

掛川藩太田家は、第十六代延岡藩主・内藤政挙(まさたか)公の実家である。
家の中で怪しげな声で何か歌う声を聞き、何かと尋ねると、麦つき歌とのこと。日中は田に出て働き、夜なべ仕事で歌うとのこと。
この辺りから提灯を点して、太田様の御領分故え、皆揃って行く。少しでも人数が多いように見せ、太田様からも出迎えた役人衆ともども、ここから「下に、下に」と声を
かけつつ城下町を通ると出店を張ってまるで祭礼のように見えた。なおの事外聞が悪く、先ずは夜分にて粗(あら)が見えずよかった。、本陣には五つ半(午後9時頃)到着した。
太田家から使者が参り、私と孫の光姫にかすてゐら(カステラ)をくだされた。掛川本陣の当主は、澤野弥三左衛門。

十日目 四月十五日 晴れ 掛川ー原川ー袋井見附にて昼食ー浜松泊。
掛川の宿を六つ半(午前七時頃)に出立時にも、先払いに役人衆が顔を出した。原川で小休止、袋井で小休止、見附宿で昼食、本陣の当主は神谷三郎右衛門。
供の男に悟られないようにして、酒を用意し、少し枇杷(びわ)を持って行った。
あまりにも草臥(くたび)られた様子なので、木の根に腰掛けて少し野点(のだて)しようと言うので、これ幸いと枇杷と酒を出させ、一口飲めと言えば、皆喜んで、
かわるがわる注ぎあって飲む。  そうこうするうちに遅れた者も追いつき今日も泊に遅れては不都合と思い、急ぎに急いで浜松に着いた。本陣の当主の名は、
梅谷市左衛門。

十一日目 四月十六日  浜松ー篠はらー舞阪ー今切の渡ー荒居の渡ー白須賀二川泊。


十二日目 四月十七日 曇、雨。 二川ー稲村ー吉田赤坂にて昼食-法蔵寺ー藤川岡崎
岡崎の本陣の当主は、中根甚太郎といい由緒のある家らしい、丁寧な取り扱い振りである。この家の八歳ほどの娘が、茶菓子など運んで来て傍にいるので、その様子を
見ると、けしぼうず(子供の頭の周囲の髪を剃って、中央だけ毛を残したもの)にして後頭部の髪を長く伸ばし、その先を肩まで垂らし、着物は袖が小さく、帯はかたひき
としてダラリと下げている。  この辺りは皆この様である。その内に夕の膳が出て、菓子折り、吸い物、すずりぶた(祝いの席で口取りざかな等を盛ったひろぶた)、刺身、
画出た。    供の者が髪を結うているところを見て、宿の女どもが珍しいといって見に来て、夜はどのようににして眠るかと尋ねたという。

十三日目 四月十八日 小雨、晴れ。 岡崎ー矢作ー大浜ー池鯉鮒(ちりゅう)にて昼食ー鳴海泊。

十四日目 四月十九日 薄曇。宮ー七里の渡(海路)-桑名泊。

十五日目 四月二十日 桑名ー小向(おぶけ)(焼き蛤)ー富田ー四日市にて昼食ー追分ー石薬師ー西冨田ー亀山泊。

十六日目 四月二一日 晴。 亀山ーの地蔵(関の戸餅)-坂の下ー猪の鼻ー鈴鹿山ー土山にて昼食。-大野ー水口泊。
近くの坂之下宿に、東海道屈指の大本陣である大竹屋本陣を始め、多くの旅籠が軒を連ね、町並みの賑わいから「関の山」(もうそれ以上望めないこと)の言葉が生まれた。
鈴鹿山は箱根山と並ぶ難所で道が険しく、山賊が出没したといわれる。
鈴鹿の山は聞くに劣らず高山で左の方は早い流水音がして、道の左右は石ころだらけ。

十七日目 四月二十二日、曇、大雨。  水口ー田川ー石部にて昼食ー梅の木ー草津(うばが餅)泊。ちなみににいう。水口、田川の次の石部には、金山跡が残る。
そこで、堅実な人物のたとえとして、「石部の金吉」「石部の金吉金兜」などいわれる。

十八日目 四月二十三日、晴れ。  草津ー満福寺ー鳥井川ー世田(瀬田)之橋ー石山寺ー大練寺ー大津にて昼食ー観修寺前大黒やー伏見泊。

伏見宿

十九日目 四月二十四日、晴。伏見の船場から三十石船に乗船して、大坂まで下った。途中、淀の水車、くらわんか舟を間近に見て、大坂屋敷に到着した。
淀(京都市伏見区)の地名は、木津川、淀川(宇治川)、桂川が合流して水がよどむところに由来している。「淀の水車」は、淀川の洲に修築された淀城へ水を引き込むため設けられた
大水車である。三十石船は伏見と大坂を十下する乗合船である。全長五丈六尺(約17m)、胴の間八尺三寸(幅約2・5m)の笹の葉型で、船頭四人定員二十八人~三十人)船賃
は上り百七十二文、下り七十ニ文。上りのときは四人の船頭が陸に上がって雁行しながら船を引き上げたためである。
その乗客目当てに、酒や餅等の飲食物を押し売りする「くらわんか舟」という物売り舟が航行した。現在の枚方(ひらかた)市を中心に出没して営業した。
「餅くらわんか、酒くらわんか、餅くらへ、酒くらへ」という横柄な言葉遣いから「くらわんか舟」と俗称され、水車とともに淀川の風物だった。


かねて聞き及んでいた「くらわんか舟の様子が見たいと思い、来たならば呼び寄せて、何とかやり取りして聞かせよと申し付けたところに、向こうから来る舟が、例のくらわんか舟だという。  

下座の者から声をかけたところ、すぐに漕ぎ着けて縄でつなぎ「何くろう」という。「ある品はないかな」、というと、「餅も酒も、早ようくらえ」と大声でいう。
「さあ、来た」と思って、続きの座に出て覗いて見ると、ちょっとした箱に串に刺したあん餅と、かまどのようなものに釜をかけ徳利をつけてある。

「まず、あん餅をおくれ」というと、「餅くらえ、どれ程くらう」といって、何となく汚らしくつかみだして「さあ、くらえ」という。
また酒はあるかと」と聞くと、「入れ物を早くよこせ」と横柄にいう。 
茶碗を出して、「さあ、これに入れて」というと、徳利から酒を注いで渡し「早く、くらえ」という。
「ほかに、何か酒の肴があるか」と尋ねると、「竹の子のおつゆ」と答えたのは、つゆに「お」をつけて「おつゆ」というのがおかしい。

そのうちに、あん餅を一つ食べてみたところ、焦げ臭くていやな臭いがして、甘くもなく、チャリチャリと口中に当たる感じがするという。
「二つとは食べられない品」と皆が言い合うと、田舎風の船客が言うには、「色をよく見せようと、消し炭を入れて祭りで商うと聞いたことがあるが、これも大方そんなことでありましょう」という。



枚方宿


































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