史料提供;有馬正光様
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歌川(安藤)広重の六十余州名所図会(え)









州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。
陸奥 松島風景 富山眺望之略図




上川は出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を囲繞し、山形盆地を流れ、大石田上流の基点・隼などの恐ろしい難所をこえ、
庄内・最上境の連山板敷山の北を流れて酒田の海に入る。

出羽 最上川 月山遠望



陸(ひたち)国は関東平野の東北隅に位置して、西は下野(しもつけ)、南は利根川が流れる下総(しもうさ)、
北は奥州へつらなる磐城(いわき)の諸国があり、東は太平洋に面している。

常陸 鹿嶋大神宮



野(しもつけ、ほぼ現在の栃木県全域)の「裏見滝」は日光市の荒沢川にあり、滝の裏側から流れ落ちる飛瀑を眺めることが出来る滝で、
「華厳滝」「霧降滝」とともに日光三名瀑のひとつに数えられます。

下野 日光山 裏見ノ瀧



のあたりは昔、毛野(けぬ)とよばれる国であったのが分割して上毛野と下毛野となり、その後国名から「毛」が抜け(!)、上野、下野となったのだけれど、
音には「こうずけ」「しもつけ」と「け」が残っているのです。
榛名山(はるなさん)は山岳信仰の対象とされた山で、山頂にはカルデラ湖と榛名富士がある。妙義山、赤城山とあわせて上毛三山と呼ばれる。
上野 榛名山 雪中




葉県鴨川市にある内浦湾は別名「鯛の浦」とも呼ばれ、世界有数の鯛の群生地として国の「天然記念物」に指定されています。
貞応元年(1222)2月16日が日蓮聖人が安房の小湊(あわのこみなと)に生まれました。小湊には日蓮聖人生誕にゆかりの誕生寺があります。

安房 小湊 内浦



総(かずさ)の国は現在の千葉県の房総半島の北部にあたる。
 伝承に拠れば「矢さしか浦」というのは矢指浦で、古名は玉の浦というが源頼朝の命令で1里ごとに矢を指したので矢指浦の名が付き、
またその矢が99本に達したことから「九十九里浜」と呼ばれるようになった。
浜の中央、どちらから数えても49本目となる場所(山武市蓮沼)には箭挿(やさし)神社が今も残る。

上総 矢さしか浦 通名九十九里



総(しもうさ)国は、南に上総ご境を接し、平野が広く開け、その他国との分界が難しく、武蔵・上野・常陸の諸国と分れたのは、
大体河の流れによったものであるが、水脈が変転しやすく形勢はますます錯雑して、その移動も極めて多い。千葉県、茨城県に属す。
下総 銚子の濱 外浦



面中央を流れる隅田川に左手前からほぼ直角に合流しているのが「山谷堀」(さんやぼり)。
音無川の三ノ輪あたりから隅田川の今戸をつなぐように掘られた掘割で、水害対策とともに、灌漑の補助もかねていた。
こういった堀は江戸にはたくさんあったが、堀といえば「山谷堀」を指すほど著名で、船宿や茶店が堀の両岸に並んだという。
ちなみにこの山谷堀沿いをすすむと「新吉原」の遊郭へとつづきます。
 この図で見えている堀は現在は上をふさがれた暗渠となり「山谷堀公園」としてその名を残しています。
図右下に見える建物は待乳山(まつちやま)本龍院で、浅草名物七福神の毘沙門さんにあたる現存する寺院です。
いかがわしくも江戸の風俗のメッカともいえるこの地を、雪の朝の清浄な風景としてまばゆいばかりに広重は描いています。
武蔵 隅田川 雪の朝




草市」というものが、浅草観音附近で毎年12月の17,18日開かれており、そこでは、正月用のお飾りや、
日常の台所用品など、生活に必要なありとあらゆるものが売られ、大いに賑わったということです。
江戸 浅草市




の満ち引きで島が陸続きになるようなところは信仰をあつめる場所でもあるようです。(現在は道路橋でつながっています)
相模(さがみ)江の島の岩屋は海水の浸蝕によって長い年月を掛け出来上がった洞窟で、弘法大師や日蓮聖人が修業をし、
源頼朝が戦勝を祈願した場所として知られています。            江島信仰の中心となるところで現在も残っています。
江の島というと海水浴やマリンスポーツで遊びに行くのがほとんどで、岩屋のことなど知らない人も多いかも知れません。

相模 江之嶋 岩屋ノ口



後の親不知の海岸といえばキャンプなどでの怪談話で必ず出てきた場所で
現代まで伝えられるほどの北陸道最大の難所で新潟県と富山県の県境近くの日本海に面した断崖です。
波が荒く、親も子も互いにかえりみる暇もないほど危険なところであったことから「親不知」の名が付いたそうです。

越後 親しらず



戸時代が始まったばかりの1601年に金脈が発見され、日本最大の金山として周辺の町も大変栄えたらしい。
驚くことに平成になる最近まで採掘が続けられていました。手前にあるのは役所小屋と思われます。
三つの舗口と呼ばれる穴道が描かれています。ひとつは出入りするためのもので、あとの二つは風通しと水抜きを目的としたものでした。
佐渡 金やま



中国は富山県全域を指す。『加越之山川記』によれば、「神通川は第二ノ大河ナリ。番山の北、舟橋有り、舟数六拾六艘程入」とある。
舟をならべて、縄や鎖などで両岸につなぎ、橋とするものが船橋で浮船橋とも、浮橋ともいわれるものである。
越中 冨山 船橋




登国瀧之浦は現在の石川県羽昨(はくい)市一之宮町滝港あたりで、能登半島の根元、千里浜の北端部に位置する。
『日本水路志』に「是(滝崎)より海岸は北北西に走ること約十三里にして海士崎に至り、次に更に東北東に走ること約三十海里にして珠洲岬に至る」とある。
距離のことは不確かであるが、その位置を知ることが出来る。
しかし実際の画景は滝からさらに北に位置する海蝕崖で有名な能登金剛(羽咋郡志賀町)の海岸と思われる。
満開の桜樹を点綴させ、一丈の滝、頂近く聳立する松の姿など、ただ単に奇怪な岩の形態のみでなく画面に種々の変化を持たせ、平凡におちいることをさけている画法を見るべきである。洞内及び海中の小岩などの黒い陰影部分と岸壁の襞にみせる薄い陰影部分の変化に、光線に対する感覚を示し、日照とそうでない部分の描写なども、新しい浮世絵の技法として新鮮な感触をみる人々に与えたことであろう。
能登 瀧之浦




賀国は現在の石川県南部で、加賀百万石といわれ江戸時代に権勢を誇った加賀藩は加賀国だけでなく能登、越中の三国のほとんどを領地としました。
 蓮湖は金沢駅の北方に位置する河北潟のこと。潟が砂丘によって日本海と隔てられることによって出来上がった湖。
5代加賀藩主が、美濃から蓮の苗を持ち帰り移植したところ、大変良質なレンコンが採れ、現在では「加賀れんこん」として知られるようになっています。

加賀 金沢八勝之内 蓮湖之漁火



前国(南西部を除いた福井県)敦賀郡(現・敦賀市)敦賀は敦賀湾の南浜にあって、近畿や近江国の北方門戸の位置を占め、
琵琶湖とわずか一嶺を隔てる所にある。         現在気比(けひ)の松原は国有防風林となっていて風光明媚で知られる。
越前 敦賀 気比ノ松原




在の福井県南部にあたる若狭の国は、冬の味覚として知られる「若狭かれい」は若狭湾でとれたヤナギムシガレイのことで、
六十余州の若狭国を代表して鰈(かれい)漁の絵が描かれました。 寛政11年(1799)刊行のガイドブックみたいなものを見て書かれたとみえ、
広重はまだ2歳、「六十余州」より凡そ半世紀前の作品です。
若狭 漁船 鰈網




斐国は山梨県全域を占め、富士山の影にあって、四面山に囲まれた中央の盆地集った水流は富士川になって南に走る。
猿橋は甲府から約50キロ、大月の東に当たる。甲州街道の旧宿場町で、橋下に流れるのは相模川の上流、山中湖に発した桂川で、
大月・都留・上野原など山梨県東部の郡内地方を流れ、さらに関東山地を横切って流れさる。大月・都留・上野原など山梨県東部の郡内地方を流れ、
さらに関東山地を横切って流れさる。谷深く橋下三十余尋といわれ、猿群渡蔓の物語に由来して猿橋の名がある。また長さ十一丈に及ぶ橋は、
日本三奇橋の一つといわれる。

甲斐 さるはし



野県更埴市南西にある冠着山(かむりきやま)、俗称「姥捨山」、は標高1,252メートル。
古来、「田毎(ごと)の月」なる名月の地として、土佐の桂浜・石山寺の秋の月と並んで三名月と言われている。
ふもとを流れているのが千曲川で、川の向こう、月が昇っている山が鏡臺山(きょうだいさん)である。

信濃 更科田毎月 鏡臺山



騨の国は現在の岐阜県北部。
この場所は現在の岐阜県飛騨市神岡町中山と富山県富山市猪谷の間の神通川の上に架けられた籠わたしで、
「飛騨より加賀へ超える」のではなく「飛騨より越中に超える」というのが正しいようです。昔の旅はまさに命がけです。
飛弾(騨) 籠わたし




在の岐阜県南部にあたる美濃国。その昔、孝行息子がこの滝の水を瓢箪に汲んだら酒になったという話から、
当時の天皇が行幸され「養老の滝」と名づけ、さらに元号も「養老」と改めたと伝えられています。

美濃 養老の瀧



豆半島でも最も歴史のある温泉です。修禅寺という地名はその名の通り修禅寺というお寺に因んでいます。
平安時代に弘法大師が開いたお寺が修禅寺。そして弘法大師が独鈷を用いて岩を砕くと、そこからお湯が湧き出したのが始まりとされています。
今でも「独鈷(とっこ)の湯」という無料の温泉が、町の中心を流れる桂川のあずまやにあります。
図中央、川の中に灯籠が見えますが、その脚もと左の岩場に見える浴槽が「独鈷(とっこ)の湯」です。

伊豆 修禅寺 湯治場



駿河国は静岡県中東部を占め、大井川・阿倍川の水量によって大きく平野部をもち、富士山の南麓、真近に霊峰富士をあおぐ地として名高い。
三保松原は、駿河湾西岸の砂嘴で、静岡市の南東にあるドーム状の有度山(頂上は平坦地で日本平)である。

駿河 三保のまつ原



江(とおとうみ)国は静岡県西部に位置し、南は遠州灘に面し、北は信州天竜峡谷を控え、その間猪鼻(いのはな)ともいう69平方キロに及ぶ浜名湖をかかえる。
もとは淡水湖であったが、明応7(1498)年大地震にて海と一つになった。その地点を今切という。
この今切とは反対に、浜名湖の奥深く東側に引佐(いなさ)の細江がある。この南岸が堀江である。
細江は狭い入り江で、図中の遠方が浜名湖の中心部へつながっている光景である。

遠江 濱名之湖 堀江館山寺 引佐之細江



来寺は愛知県東部の新城市にある鳳来山の山頂近くにある真言宗五智教団の寺院です。
大宝2年(702年)利修の開山で、薬師信仰と山岳修験道の霊山として古くから信仰を集める。
徳川家康の両親が天下人となる男子を祈願して家康を授かったと伝わったことから幕府の庇護を受けました。
参道の石段の数が1425段あり、徳川家光によって建てられた仁王門は国の重要文化財となっています。
 画面中央下の赤い楼門が仁王門で、階段の途中に点在する建物は坊舎で、多い時には21の坊舎があったそうです。
画面を横切る「すやり霞」と山頂近くの本堂自体を描かないことによって、、山の深遠さと荘厳さをより引き立たせている。
また霞に赤や紫、青などのぼかしを入れることによりこの図に変化を与えている。

三河 鳳来寺山巌



本三大川まつりのひとつとされている「津島天王祭り」は、愛知県に500年以上も伝えられてきた歴史あるお祭りです。
数ヶ月にも渡る行事、儀式のクライマックスが「宵祭」で、暑さ厳しいこの時期、毎年7月の第4週に行われる。
提灯を山形に飾り立て点灯した「だんじり船」が天王川を渡る美しさは、織田信長や、豊臣英世氏らにも愛されたといわれています。
広重のこの図でも、5隻のだんじり船が提灯のひとつひとつ、お囃子などまで細やかなに描かれ、近くで見守る小舟、川沿いの見物のための会場など、
江戸時代のお祭りの様子がとてもいきいきと表現されています。また一文字(画面上端のぼかし)を墨色とし、宵のまつりであるのを印象づけています

尾張 津嶋 天王祭り




賀国は、三重県西端部に位置し、東と北は伊勢近江に続き、南と西は大和と交わる。
上野は芭蕉の出身地として、また上野の郊外にある鍵屋(烟草屋の名称)の辻は荒木又右衛門仇討の場所として有名である。
 遠方に描かれているのが上野城であろうが、ここは天正年中に北畠氏の臣滝川雄利が来り、筒井定次がその後文禄年間に築造したが、
家臣中坊飛駅と争って封土を没収され、慶長13年藤堂高虎安濃津と上野の二城の主となり、代々藤堂家がこの地を治めた。
本丸の南愛宕神社のそばに蓑虫庵がある。伊賀の国、上野といえば俳聖・松尾芭蕉(1644-1694)が生をうけた地として知られています。
およそ150年後の江戸に生きた広重もおおいに芭蕉に感化されたことでしょう。
「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」の芭蕉の一句から、服部半左衛門保英(土芳)は自分の些中庵を蓑虫庵とかえた。
芭蕉帰郷毎にここに滞在、多くの人々集り来り、ここで芭蕉に教を乞うた。

伊賀 上野




の茶屋を行き交う旅人や、茶店の人などの生き生きとした描写が楽しい図です。
 朝熊山は「あさまやま」と読み、伊勢市南部に位置する山で標高は550メートル。山頂には臨済宗南禅寺派の金剛證寺がある。
伊勢神宮の鬼門を護る寺として、伊勢志摩最大の寺として多くの参拝客が訪れました。
峠の茶屋からの眺望は雄大で、富士山が見えることもあったといいます。

伊勢 朝熊山 峠の茶屋



摩国は三重県の東端部に位置し、多くの島嶼と多くの港が雑然と散在する。
江湾が極めて多く、船の出入りは頻繁で、ことに鳥羽港は天然の良港をなし、古くから待避港や風待港として栄えた。
前面に答志島菅島などあって外洋を遮断し、停泊の安全性をもつため、天候が悪く風波激する時、この湊へ寄港した。
ちょうど熊野灘と遠州灘の中間にあって、伊勢海の中心ともいうべき地点である。
この鳥羽の北西にある僅か百六十米の丘が日和山である。
伊勢海を隔てて知多半島・伊良子崎から富士・八ヶ岳も望める景色は絶景といえよう。
この山で風雨の異変、海洋の荒れ具合などをみるという。
小島眼前に散在しているなかに、白帆が立ち、近景では碇泊の船や小さな漁船なども描かれ、波立つ浜辺や多くの人家にまとまりをみせている。
天候などで不時の客船が多く大体が小港である様子が画面にもでていよう。

志摩 日和山 鳥羽湊






江(おうみ)の国は現在の滋賀県がそのままあてはまります。滋賀の象徴とも言える琵琶湖は楽器の琵琶をさかさまにしたような形からその名がつきました。
西国巡礼十三番札所でもある石山寺(いしやまでら)は琵琶のネック、鹿首(かのくびというそうです)の先端にあたる琵琶湖南部に位置する、真言宗のお寺です。
平安時代の宮廷の女人たち間で、石山寺の観音堂で読経しながら一夜を過ごすのが流行し、かの紫式部もここに参籠して「源氏物語」の相を練ったということです。
現在でも紫式部ゆかりの華の寺として多くの参拝客を集めています。
この絵では石山寺自体は描かれず、その門前町の一部とその賑わいが描かれています。一方、遠くに見える比良山脈、近江八景に数えられる「石山の秋月」にならった月に雁と静けさも感じさせます
画面中央を横切るように描かれているのは瀬田の唐橋、または長橋と呼ばれる東海道の道です。そこの夕映えはこれまた「瀬田の夕照」として近江八景のひとつに数えられています。

近江 琵琶湖 石山寺





都嵐山の渡月橋の図です。渡月橋は亀山上皇(1259-1274)が「くまなき月の渡るに似る」として命名されたと伝えられています。
山城 あらし山 渡月橋





波国鐘坂(かねがさか)は現在の兵庫県丹波市柏原(かいばら)町にあります。   このあたりは京都の北部と阪神地区を結ぶ道が古くからあったものの道が険しく、
明治16年に鐘坂と現在の兵庫県篠山(ささやま)市を結ぶ「鐘ケ坂隧道」(通称:明治トンネル)が設置されました。
レンガ積みのトンネルとしては日本最古のトンネルとして知られている。またトンネルの反対側の篠山市は丹波の黒大豆の産地として近年全国的に有名です。
重畳たる山路が続き、それを登りゆく旅人を粟粒の如く描く。高く聳える樹が少なかったらしく、点々と群がり亭々と立つ松樹が描かれている。
遠方には切り立った岩山が描かれ、「石梁」と記入があって、天空にわたした石橋が見事に臨まれる。

丹波 鐘坂





在の京都府北部に位置する丹後の国。丹後半島の付け根にあるのが、日本三景のひとつ「天橋立」です。
広重の図では全体ではなく天橋立の部分だけを描いている。
約8千本といわれる松林に中央右に見えるのは今ものこる天橋立神社(別名、橋立明神)。
洲の右側が帆掛け船が描かれている宮津湾で、左が阿蘇海。

丹後 天の橋立





 河内国(大阪府)は東南に山岳を擁し、淀川が西北を、そして大和川がその中央を流れて、交通の利便さにより発展をみせていた。
枚方(ひらかた)は淀川の水駅として名高く、徳川幕府はここに船番所を置き、上下の舟をきびしく監視して、伏見と大坂の間の航行を掌握していた。
京・大坂を結ぶこの淀川左岸沿いに走る京街道に設置された宿駅枚方は、遊里としても賑わいを見せたようである。
 男山(鳩ヶ峰の別称)は河内と山城両国の境を接する海抜百四十米、この北方に淀川を臨み京師への関門となっている。有名な石清水八幡宮の西にある。
河内 牧(枚)方 男山






阪西南部を占める和泉の国。
もともとは「泉」という国名であったものを和銅6年(713年)の詔(みことのり)によって2文字にしたので「和泉」となり「和」は読まず、「いずみ」と読む。
高師は日本書紀に「高脚」の名で記される大変古い土地で、現在の高石市にあたります。
「音に聞く高師浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ」の百人一首に詠まれ、
万葉集にも「大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ」の句がある。
 広重の図では、手前の松林に鳥居と社が見える。高石神社であろうか。
紀州街道に面していたため高野山詣での旅人も多く立ち寄ったようです。

和泉 高師のはま






津国は、大阪府北部と兵庫県南東部を含めた地域をいう。東は河内、南は大和川をもって和泉に接し、北は山城丹波、西は播磨に至る地点である。
住吉は畿内有数の古社といわれる住吉大社のあるところであり。住吉の松原の際に、細江浅沢の水がすぎて海に入っていた。
その辺が出見(いでみ)浜と呼ばれていた。ここに住吉の献火高灯籠があった。
鎌倉末期漁民が奉納したといわれるが、海上の標識となっていた。
「住吉の出見浜の柴なかりそね をとめらが赤裳のすそのぬれて行かそむ」(万葉集)が知られる句である。
摂津 住よし 出見のはま





(いわや=岩屋)観音は、兵庫県朝来(あさご)市岩津にある鷲原寺(わしはらじ)の奥の院として、
寺から渓谷を一キロほど上流にいったところにある。
洞窟内に大日如来の磨崖仏と千手観音、聖観音など6体の観音像、弥勒、文殊など5体の菩薩像など計16体の石仏があり、
それらを総称して「岩屋観音」と呼び祀っています。
広重の図では左に岩のみの峻嶺な観音山を描き、右下に流れのはやい観音川を描いている。
赤と紫の「すやり霞」が山奥の清冽な空気を巧みに表しています。

但馬 岩井谷 窟観音




兵庫県
磨 舞妓の濱





和国は、現在の奈良県全域を領している。その生駒郡斑鳩に龍田がある。北部に有名な法隆寺があり、古来紅葉の名所として知られる。
立田山は信貴山の南に接し河内の大県郡に跨る嶺で、龍田川は上流を生駒川、龍田に至って大和川にはいるのである。
筏を流す清閑さが画中にただよい、真赤に紅葉した秋の風情もよく描きだされ名にしおう歌によまれる名所の風景である。
大和 立田山 龍田川







路国は現在の兵庫県の一部で淡路島と沼島にあたり、『古事記』のなかで日本で最初に生まれた島とされている。
瀬戸内海の東部に位置し、図の五色浜は淡路島中部の西海岸に位置するおよそ2kmの海岸。
花崗岩や粘板岩などの小石で敷き詰められている浜辺で、メノウ、コハク、ルリ、白、斑紋など五色に輝くことから五色浜と呼ばれてきた。
淡路は明石とともに鯛の名産地としても昔から有名で、この図で描かれているのは鯛の振り網漁であろう。
赤い衣と緑の衣を着た漁師の漁船が互いに協力しあって漁をしているのが細かに描かれてる。
淡路 五色濱





在の和歌山県全域と三重県南部を含む紀伊国は、南東部での降水が本州第一といわれ森林繁茂して木国の異名に相応しい地域である。
 また一方太平洋に面する海岸に屈折多く、数多い風光絶佳の海浜の地をかかえていることも特色である。
 そのなかで「和歌浦は名立る勝地にして、東西廿余町、浜松の色濃くあしべの田鶴波間のちどり、江水洋々たり。」と『名所図会』にある。
紀伊 和哥之浦







幡国は鳥取県東半部にあたります。
「加路(かろ)」は現在の鳥取市賀露町で、「小山」は古い地図では見ることができますが、現在の湖山(こやま)町南1丁目あたり、鳥取大鳥取キャンバスとなっています。
この近くで「こやま」といえば、池としては国内最大の「湖山(こやま)池」でしょう。古代は海湾でしたが砂丘の発達や土砂の堆積により池となった。
そのため湖山池には川と海の魚両方が生息しています。池内には最大の青島をはじめ猫島、鳥ケ島、津生島などがある。どうも「池」と呼ぶには大きすぎる。

因幡 加路 小山





伯耆(ほうき)の国は現在の鳥取県の西部にあたり、その中央に座す大山(だいせん)は、古来から信仰の霊場としてとして崇められていた。
出雲富士または伯耆富士とも呼ばれる。
そうそうと降る恵みの雨の中、村の人総出で田植えにいそしんでいる。田んぼの端にはこれから植える苗の束。
天秤棒で何かを運んでいる人。その農民のいとなみの近景の向こうに威容のシルエットをみせる大山。
なおタイトルにある大野という場所について、現在の住所表記にはなく、書かれている見あたらない。

伯耆 大野 大山遠望





出雲国(島根県東半部)にある出雲大社は縁結びの神として参拝者が絶えない。
「ほとほと」は訪問者などの戸を軽くたたく音にいう言葉で、小正月(一月十五日を中心とする正月行事)に姿を隠して来訪し、
戸口をたたいてほとほとなどの祝い事を唱え、そこへ餅など出しておくと知らぬまにこれをとり、代りに藁細工などを置いてゆく。
神の代行者が訪れて恩寵を示す品物を置いてゆくのに対し、受ける方でも捧げものをするという信仰にもとづく行事である。、
この地の風俗を興味深く描いているといえよう.

出雲 大社 ほとほとの図






「石見(いわみ)銀山」。
石見国は現在の島根県西半部にあたり、歌聖・柿本人麻呂の生地、終焉の地として古くから知られています。
高津川の河口近くで、近景には塩田で働く人々の姿がのんびりと描かれています。

石見 高津山 汐濱





焼火山(たくひさん)は隠岐(おき)国(島根県の隠岐諸島)隠岐郡西ノ島の東部にある山で半島形をしている。
島前(とうぜん)海の中心に円錐形を成した形勢甚だ雄偉な山で、古来から舟人の目標となった。
太古の噴火で出来た山で、山上に延喜式大山神社、波止浦に比奈麻治比売命(ひなまじひめのみこと)神社がある。
島中の船人やこの附近を航海する人々はこの焼火権現を殊に崇敬し、航路の安全を祈願したもので、現在でも「焼火さん」といわれて多大の信仰を集めている。
船の舳先をクローズアップし、そこで御幣左右左に振る船子を描いている。
白い波頭を念を入れて描写しているのは、舳先や陸地の描写に対して快い動きのある旋律をこまやかに感じさせるためで、
広重のすぐれた波涛描写の一つといえよう。

隠岐 焚火の社




作(みまさか)国は現在の岡山県北東部にあたり、宮本武蔵が美作国宮本村の出身ということで有名です。
美作国久米郡大戸(現・美咲町)は弓削の東にあって、津山川の西に位置する山村である。
この山中に天台宗岩間山本山寺という仏寺があって、開基は鑑真和上とも伝えられている。
天永年中(1110-13)古道人という仙人が観音を安置してこの寺を興したとも伝えている。
また、役小角の旧蹟でもある。
この近くに「ボウズ谷」という所があり、そこには一望を見渡すことが出来る断崖絶壁の切り立った岩がある。
その下は吉井川(津山川)が激奔して、景色が絶景であった。
かつては修験山伏の行場もあり、土地の古老の心証では「山伏谷」はこの辺ではなかろうか、ということである。
広重は強い風を伴った横なぐりの雨を描き、笠は飛び、天地鳴動の瞬間をとらえている。
きつい雨脚を太い条帛のような描写で行い、このシリーズで最も激しい風雨の景を描き、樹木のゆれ動くさまなどにも広重の力量をするどく見せて、
気をひきしめる緊迫の画面をなしている。

美作 山伏谷





備中国(岡山県西半部)を描いた、現在の総社市吉備中央町にある豪渓(ごうけい)は、今でも人気の景勝地ですが、
古くから有名で、近くの宝福寺で修行中の雪舟もしばしば遊びに来たそうです。
豪の渓という名称に負けず劣らぬ奇怪な姿の岩は、広重の時代でも備中国の代表として描かれました。
川沿いには観光の旅の人でしょうか。段々になった槇谷川の流れの音が聞こえてきそうです。

備中 豪渓





備前の国(岡山県南東部)児島郡にある田の口は日比浦西二里半にある海村で小港をなしている。
田の口より北一里に瑜賀山(ゆがさん)があり、ここには蓮台寺がある。
瑜賀山下には宿屋五、六十軒が両側に立ちならび、坂路には仁王門銅華表(鳥居)等があった。
備前 田の口海浜 瑜賀山鳥居





日本三景のひとつ、世界遺産にも登録されている安芸厳島神社の管絃祭を描いた図です。
管絃祭が行われる旧暦6月17日は今年は8月7日にあたる。夏の盛りのお祭りです。

安藝 巌島 祭礼之図





備後(びんご)の国は現在の広島県東部、磐台寺観音堂は福山市沼隈町に位置します。
磐台寺観音堂の歴史は古く、正暦3(992)年航海の安全を祈願して十一面観音像を本尊として花山法皇が創建。
その後源平合戦で被害を受け一時荒廃するが、元亀元(1570)年毛利輝元によって再建され、現在の姿となりました。

備後 阿武門観音堂





 長州の呼び名も馴染み深い、長門国(山口県西北部)の名は貞観11年(869)の太政官府(命令文書)にすでに見え、
海陸の要衝にあたったため、ことに中国との往来の出入の地としても著名であった。

長門 下の関




周防(すおう)は山口県の東南部にあたり、防州(ぼうしゅう)とも呼ばれました。   岩国市を流れる錦川にかかるアーチが美しい錦帯橋(きんたいきょう)は1673年
岩国藩主吉川広嘉によって創建された木造の橋で、1950年の台風で流されるまで実に270年以上も耐え抜いた頑強な橋です。
周防 岩國 錦帯橋





阿波の国は粟(あわ)の生産地であったから、その名を残し、その「あわ」への路であったので「淡路(あわじ)」となったと言われている。
阿波の北部にある鳴門は淡路への交通の要所として栄えたところ。難所でもあった鳴門のうずしおは、阿波の国の名所でもあったのです。

阿波 鳴門の風波




現在の四国香川県にあたるのが讃岐。琴平町にある琴平山はその形が象の頭のようであるので「象頭山(ぞうずさん)」と古くから呼ばれていました。
象の目にあたるところが「こんぴらさん」と呼ばれ親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう)です。
讃岐 象頭山遠望





伊予国は現在の愛媛県にあたる。この新居(にい)郡に西條の町があり、北に海湾をもつ港で、松山より十四里の地点にある。
同書によれば中央の頂の平らな山は石鎚山となっている。この山は新居と周桑(しゅうそう)二郡の南を領して伊予国の高嶺と称されている。
高さ六百四十丈で四国第一の高峰ともいわれている。
図中にみえるのは西條城で、寛文年中、紀伊大納言宣頼の次男松平左京丈夫頼純の居城となってから、代々松平氏三万石の城下として栄えた。

伊豫 西條





土佐国は、四国の南偏の地にあって、南は海に開き、東西には岬が突出して湾月状の地形をなしている。
ここの名産は土佐鰹(松魚)である。
図中の桶は、鰯の生飼を入れておくもので、長柄で汐を汲入れているのは、鰯の生を保つためである。
その鰯 - 小さな魚 - を海中に放っている。

土佐 海上松魚釣





筑前国(現在の福岡県西部)は東は豊前、南に筑後と肥前に接し、(なお東南隅ではわずかに豊後と相触れる)西北は海洋に臨む。
即ち遠賀川(おんががわ)の流域で玄界灘がある。古来太宰府のあった国である。
画面右下の鳥居に「鹿(しか)島」、海中につづく陸地の松林に「海中道」、左上の小山に「香椎神社」その前方の小島に「名島」がある
筑前国粕屋郡志珂(しか)郷志賀島村は鹿島といい、海中にあって殆んど島に近く、四鹿浜之可浦ともいう。
この浜は奈多浜(海中道)の東辺で、浦は福岡湾のことである。
海中道は青松白沙相映じ、佳景で知られ、その狭い所は時々潮水によって絶たれるのでこれを道切といって小舟を使ったという。
香椎神社は延喜式神名帳にみられる古社である。ボカシの技法を効果的に使い、単調におちいる画面を生々とさせている。

筑前 筥崎 海中の道




筑後(ちくご)の国は現在の福岡県南西部にあたる。
筑後川は熊本・大分・福岡・佐賀の4県を流れる九州第一の川で、日本三大暴れ川のひとつとして筑紫次郎と呼ばれることもある。
この図で描かれているのは北岸(筑前側)の杷木町林田と南岸(筑後川)の浮羽町大石に挟まれたあたりです。
筑後側では川をせき止め梁(やな)をかけて鮎をとるので簗瀬(やなせ)と呼ぶ。
一方、筑前側では竹や木で川に簀子(すのこ)を立て網を打つ方法をとるので、網渡瀬と呼んでいた。
現在でも簗瀬による鮎漁は続けられています。

筑後 簗瀬





肥前国は九州西北部に位置し、長崎、佐賀の二県を領し、また前海という筑紫海は一大内海となって、肥前、肥後、筑後の三国に深く接入している。
 稲佐は長崎浦上渕村といわれ、森崎大波戸の真西にあたるところで、西に稲佐山、東南に港湾をいだく。
長崎中の小長崎と異名があり、繁華の街として船主海客の泊まる地として知られる。
稲佐山は「世に聞こえし高き兀山にて」(長崎案内)とあるので、図中「宝山」と記す中央の山がそれと思われる。
鳥居は村の西北に渕神社があるというのでこれを示したものであろう。

肥前 長嵜 稲佐山



壱岐は現在の長崎県壱岐市で、玄界灘およそ20kmの沖に位置する。朝鮮半島との要路にあたるため、古くから知られ、「いき」または「ゆき」と呼ばれていました。
壱岐という字が定着するまでは一支、伊伎、伊吉、伊岐、由紀、由吉などの表記が中国の史書などに記録されています。
しかし壱岐には志作という地名も字名もないとのことです。鎌倉時代に志佐(しさ)氏がこの地の守護となったことから、確たる物はないが、
志佐の名が何かのことで残り「志作」となったのではないかということです。

壱岐 志作




対馬島は壱岐島の北西約三十三海里、九州北西方の島が対馬島であり、古来から大陸交通の要地として名高い。
 対馬島は丘陵状となす上島(247平方キロ)と下島(435平方キロ)に分かれている。
 壱岐島と対馬の間を対馬海峡といい、ここを通る暖流が対馬海流となり、樺太西岸沖合まで達している。
対馬 海岸 夕晴





肥後国(現在の熊本県)は九州中央にあって、三方を山がおおい、菊池・阿蘇・益城・球磨の四大河は、その山嶺から生じて、西に流れ一方の海に注ぐ。
その阿蘇・益城・球磨の上流は火山や盆地を形成して、別天地の感をもたせ、奇怪と峻険の地として名高い。
五かの庄は、球磨川の上流の地の山谷深き九州第一の僻境といわれる所である。
椎原・久連子・樅木・葉木・仁田尾の五村からなり、北は矢部、南は五木江代、東は椎葉、西は種山、皆険阻で名高い地に囲まれている。
深山の谷地ともいう地で、平家の落人が住みつき、秀吉の頃までその存在が知られずにいたという所としても有名である。
「北斎漫画」七編の「肥後五ケの庄」から借用した図であることは知られているが、北斎は何から自身の図を得たかは明らかではない。

肥後 五ヶの庄





豊前(ぶぜん)国は現在の福岡県東部から大分県北部にまたがった地域にあたるが、明治時代に山国川(やまくにがわ)を境に福岡と大分の部分に分かれた。
 県境となった山国川の中流には奇勝として知られる耶馬渓があり、その中に羅漢寺がある。
画題に羅漢寺下道とあるように羅漢寺川下にあるのが描かれている「青の洞門」です。

 青の洞門は越前の僧・禅海(1691-1774)が開削した穴道。
曹洞宗の僧であった禅海は諸国行脚の途中、曹洞宗の寺で羅漢寺の総本山であるここを参拝した時、
人や馬がしばしば滑落することを知り、近郷の援助を得て30余年の歳月をかけ1763年に完成させた。
ところどころつけられた明かり取りの窓も描かれている。
完成後は通行料を徴収し、日本最古の有料道路ともいわれています。(O)
豊前 羅漢寺 下道





豊後国は九州の東北部、阿蘇火山の東にあって、海洋は四国の伊予と相対する豊後水道をもつ。
そのなかで北方に延び、伊予灘と周防灘に接するところに国東半島がある。この半島の東南に杵築(きつき)湾が存在する。
湾は東の角を美濃崎(みのざき)、西の角を賀貫崎といい、西北に入り込んでいる。
美濃崎は、昔景行天皇がこの地に巡幸の折、にわか雨に簑を献上したとの伝説に簑崎の地名ができたといわれる。
豊後 簑崎





日向(ひゅうが)国は九州東南の地にあって、南北に長く、沿海は平野部を大きく構成している。
日南市油津は飫肥(おび、宮崎の南十一里)の東南二里にある。その港湾は南面して、小さいが、利便の地として知られる。
大伏山とあるこの岬を東側として湾入し、その南方に木場島、大島(表題の飫肥大嶌)がつらなる。
人家四百ばかりの浦で、船の碇泊するところ、東西十町南北十二町、左右の山が対峙して海中に突出している。
島と島との間を「大間口」といい、船舶がここから油津に出入した。静かな湊の風情を広重なりに昇華している。
これも『山水奇観』より借用した図であるが、しっとりとした情緒は広重の手にならなければ描出できなかったであろう。

日向 油津ノ湊 飫肥大嶌




にょっきりと天にのびた奇岩は、広重のデフォルメではなく、現在も鹿児島県の西南端に位置する南さつま市坊津(ぼうのつ)町にその威厳ある姿を残している。
坊津は古来から海上交通が盛んなところで、奈良時代の753年唐の僧侶・鑑真がたどり着いたのは坊津町の秋目というところです。
図を上下半分に割るように描かれた水平線が双剣石(そうけんせき)の威厳を際だたせている。
水平線の左端に白い橋のように見えるのは、図中に「坊岬秋月洞」と書かれているが、秋月洞というのは現在の地名には残されていない。

薩摩 坊ノ浦 雙剣石





現在の鹿児島県東部と桜島、奄美諸島を領域とするのが大隅(おおすみ)の国です。
桜島は大正3年の大噴火による溶岩流によって大隅半島とくっついてしまいましたが、それまではまさしく「島」でありました。
これは桜島がまだ島だった頃の図です。
広重はまさか桜島が島でなくなってしまうなんて思いもしなかったはずで、桜島を画面左端で切ることによってその大きさを強調したのでしょうが、
後世のわれわれからすると島である(四方を海で囲まれた)桜島を見たかったところです。
常に噴煙を上げ猛々しい桜島なのですが、この作品では煙もなく、閑かな春のたたずまいの桜島が描かれています。

大隈 さくらしま





終り




























こうずけ しもつけ ひたち むさし えど しもうさ かずさ あわ さがみ いず するが かい しなの のと えっちゅう かが とおとおうみ えちぜん みのう わかさ ひだ おうみ いが いせ しま みかわ おわり やまと やましろ たんば たんご たじま いなば せっつ かわち はりま いずみ あわじ みまさか びぜん ほうき びっちゅう でわ むつ えちご さど いずも びんご いわみ あき おき つしま いき ながと すおう きい さぬき いよ あわ とさ ぶぜん ちくぜん ひぜん ちくご ぶんご ひご ひゆうが さつま おおすみ inserted by FC2 system